源平合戦で、滅亡したと言われている「平家」
私は、幼少の頃から「牛若丸」のファンでした。
で、どうしても納得いかないのが、
安徳天皇の最期…
どう考えても、
大事な天皇…
しかも、こどもを戦いの最前線に連れて行くなんて有り得ない…
と思っていました。
まず、避難させるだろう…
そこそこ重要な人物をつけて、安全な場所に行くだろう…
と考えてました。
で、オバサンの予想通り
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●平家落人伝説
寿永4年(1185)、屋島の戦いで平家は敗れ、平教盛の次男・国盛は安徳天皇を奉じ、手勢百余騎を率いて祖谷に辿りついた。
この地を永住の地と定め、平家の再興を祈りながら武芸の訓練に励んだと伝えられる。
剣山周辺に安徳天皇や国盛ゆかりの場所や伝説が多く残るが、西祖谷山村にも、安徳帝の御典医だった堀川内記の子孫の屋敷とされる「平家屋敷」がある。
建物は合掌造りで、現在は鎧や生活用具など約500点が展示されている。












Yahoo!の質問でベストアンサーに選ばれていた
「平国盛」
平国盛は、別名の平教経で有名な平家の猛将。
永暦元年(1160年)~元暦2年3月24日(1185年4月25日)?
平清盛の弟である平教盛の次男で、平家随一の猛将として名高く、数々の合戦において武勲を上げたとされる。
本名は国盛だが、1179年に能登守になると同時に教経に改名したという。
一般には平家物語の壇ノ浦での義経八艘とびエピソードの後に、源氏の武者を両脇に抱えての入水が最後とされるが、
吾妻鏡では一の谷の戦いで戦死したとされているなど色々異説の多い人物。
一説には屋島の敗戦後に安徳天皇を守って四国阿波の山中を落ち延び、剣山あたりに隠れ住んだともいう。
また、屋島で義経四天王の一人、佐藤継信を討ち取ったともいうが、
一の谷で討死したとすればこれもまた虚説となる。

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一族を全滅させるほど「平家」が馬鹿とは、思えない。
オバサンの情報では、屋島から陸路で移動したと聞いています。
形勢不利になって、準備していたと考えてしまう
と言うか、平家を守るため、屋島の戦いの頃は、すでに安徳天皇の護衛をしていたのではないかと思います。
安徳天皇は、祖谷で、病死しています。
色々想像してしまいますが…
結局、平国盛は、祖谷での永住を決意し、名字を変えています。
平家の子孫は、今も『平家』を守って…生活されています。