シルクロードのDVDを見て、仏教遺跡に浸っていましたが
現実は…
悲しい( TДT)
中国の核実験─シルクロードで発生した地表核爆発災害─の続きです。
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■5.職場での民族差別の壁■
1991年にアニワルは鉄道局付属病院の医師となったが、そこでも民族差別の壁に何度も突き当たった。
ある日、外科のオフィスに一人の看護婦がやってきて、治療に関する質問をした。部屋にいた7人の漢人の医者が答えられないので、アニワルが教えてやると、その看護婦は「あら、『吃羊脳子的』(いつも羊肉ばかり食べている者の脳)にしては、このひと意外に賢いじゃない」と言った。
アニワルは「豚の脳味噌と羊の脳味噌はどっちが賢いと思う」と怒った。
勤務先の病院では、漢人の医師には2LDKの部屋を一律に割り当てていたが、アニワルは夫婦と子供一人で1LDKの部屋しか貰えず、毎年同僚と同じ2LDKの部屋を要望したが、「住宅割当会議の時に不在だった」などの理由で拒否され続けた。
「もうこんな不平等な国には居たくない」との思いが募った。
アニワルの父は、中国では共産党員でなければ、安定した生活も出世も富も望めないと知っていたので、息子に入党を勧めた。
入党の申請をすると「次の党支部拡大会議に招聘するから、その時、入党の決意を語るように」と命ぜられた。
しかし、当日、緊急の手術が入って、会議に行けなかった。
党委員がやってきて「党が大切なのか、おまえ自身の用事が大切なのか。次回は絶対に参加するように」と厳しい口調で言った。
しかし、その次回も重態患者の緊急手術が入った。
会議の事が頭をかすめたが、アニワルは医師として人の命を救う方を優先した。
党委員は「入党申請書」を突き返してきた。
■6.あなたがた漢人は「偉大なる」民族だ■
ある時、ウルムチでバス爆破事故が発生し、多数の死傷者が出た。
東トルキスタンの独立を目指す組織が犯行声明を出した。
百人を超える医師と看護婦が現場で負傷者の手当に当たった。
アニワルもその一人だった。
その時、ある漢人の医師が腹立たしげに叫んだ。「はやくウイグル人は我々と同化すべきだ。そうすればこのような事件は起こらない!」
すべての人の視線がその場にいたただ一人のウイグル人、アニワルに注がれた。
アニワルは言い返した。
「確かに、、、あなたがた漢人は「偉大なる」民族だ。『日本鬼子(漢族の日本人への蔑称)』が中国を侵略したとき、あなた達は8年の抗戦を経て勝利した。我々ウイグル人もいつの日か、それに倣うだろう。
その場の空気が一瞬にして凍りついた。
96年にアニワルは主任医師(管理職)になるための試験を受けた。
理論、技術などすべての科目は合格したが、外国語だけは合格点に達しなかった。
中国語もウイグル語も外国語とは認められず、もう一つの外国語で受験しなければならなかったからだ。
そこで外国語習得のための留学を目指した。
しかしそれは口実で、本音はウイグル人と同じテュルク系民族の国に渡り、医者を続ける道を探りたかったのだ。
そこでトルコに渡り、3ヶ月の語学研修を受けた。
トルコ語は同じテュルク系の言葉なので、3ヶ月ほどで日常会話は支障なく話せるようになった。
次に、中国では学べない外科知識を学ぼうと、医科大学院の受け入れ先を探し始めた。
■7.核実験被害の潜入取材■
そこに、ウイグル人の知人が「英国のテレビ局の記者がウイグル人医師を捜している」という話を持ち込んできた。
英人記者に会ってみると「新彊に観光客を装って潜入取材し、核実験被害の実態をルポしたい。ガイド兼通訳と偽って、あなたも一緒に行ってくれないか」と懇願された。
アニワルは鉄道病院にいた時、鉄道局の健康調査データから、ウイグル人も新彊の地に長くいる漢人も、悪性腫瘍の発生率が他の地域に比べて35パーセントも高い、という分析をして、核実験被害に関する懸念を抱いていた。
アニワルは「協力しましょう」と答えたが、もし潜入取材中に見つかったら、と思うと、「逮捕」「投獄」「拷問」「禁固20年」などの言葉が頭の中をよぎり、体にガタガタと震えが来た。
98年7月に、アニワルを含む6人の取材チームは新彊に入った。
チームの中でアニワルはツーリストガイドを装っていた。
車を借りて交替で運転し、可能な限り裏道を走って、核実験基地のある「ロプノール」近辺の村々を回った。
■8.「お母さん、もう死にたい」■
農民たちは「基地では、漢人の住む方向に向かって、つまり西から東に風が吹く時は核実験をしない。西に吹いた時に行っていた」と憤る。
基地の西方面では、直接、放射能物質が降り注ぐ。
ある村では、生まれてくる赤ちゃんの8割が口唇口蓋裂(上唇や上顎が割れている症状)だった。
別の村では、内臓異常のため腹や喉など身体の一部が肥大化して瘤を持った者がたくさんいた。
また先天性異常で大脳未発達のため、歩けず話せない障害児ばかり生まれてくる村もあった。
それでも村人たちは、貧困のために転居もできず、汚染された水を飲み、「死の灰」の降った土壌を耕して生きていかねばならない。
ドキュメンタリー『シルクロードの死神』には、奇病に冒された17歳のウイグル人少女が登場する。
生まれた時には問題はなかったが、成長するにつれて骨が自然に折れて変形する関節異常を患っている。
踵(かかと)の骨が飛び出て、その痛さに泣き続ける。
「痛い。私の足を切って。お母さん、もう死にたい。」
「死を待つしかない子供たちに、親は『これは神様の定めた運命なのだ』と説明するしかない」
とナレーションが入る。
一行は文献資料収集も行った。
アニワルが大学や病院、図書館の資料を借り出し、英人記者たちが夜な夜な、ホテルでフィルム撮影を行う。
収集した1966年からのデータで、核実験の開始と共にガンの発生率が年々上昇している事が分かった。
取材を終えると、アニワルは逮捕を恐れて、ウルムチに住む家族に電話すらせずに、トルコに戻った。
放映された番組は大きな反響を呼んだ。
ようやく外科医の仕事を見つけ、これからは生活も安定すると思っていた矢先に、「中国とトルコが貿易関係の強化を図るので、政治亡命者は身の安全を考えた方がよい」とトルコ駐在の台湾人記者が警告してくれた。
せっかく見つけた外科医の仕事もなげうって、イギリス大使館に駆け込んだ。
大使館員は、アニワルが『シルクロードの死神』の制作に協力したと知ると、即座にビザを発給してくれた。
■9.「広島の経験を新彊で活かすことができれば」■
今はイギリスで同様に政治亡命してきた大勢のウイグル人とともに狭い家で暮らすアニワルは、新彊での核実験被害について
「医者としてやりきれない」と頭を抱えながら、こう語った。
中国では被曝者が団体を作ることも抗議デモをすることも許されないし、国家から治療費も出ない。
中国政府は「核汚染はない」と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の医療支援団体は調査にも入れない。
医者は病状から「放射能の影響」としか考えられなくとも、カルテには原爆症とは記載できない。
学者は大気や水質の汚染調査を行うことを認めて貰えないから、何が起きているのか告発することもできない。
このように新彊では、原爆症患者が30年間放置されたままなのだ。
さらにアニワルは、日本人に向けて、こう語った。
「被爆国日本の皆さんに、特に、この悲惨な新彊の現実を知って欲しい。核実験のたび、日本政府は公式に非難声明を出してくれた。それは新彊の民にとって、本当に頼もしかった。日本から智恵を頂き、広島の経験を新彊で活かすことができればといつも私は考えているけれども、共産党政権という厚い壁がある。」[1,p141]
(文責:伊勢雅臣)
現実は…
悲しい( TДT)
中国の核実験─シルクロードで発生した地表核爆発災害─の続きです。
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■5.職場での民族差別の壁■
1991年にアニワルは鉄道局付属病院の医師となったが、そこでも民族差別の壁に何度も突き当たった。
ある日、外科のオフィスに一人の看護婦がやってきて、治療に関する質問をした。部屋にいた7人の漢人の医者が答えられないので、アニワルが教えてやると、その看護婦は「あら、『吃羊脳子的』(いつも羊肉ばかり食べている者の脳)にしては、このひと意外に賢いじゃない」と言った。
アニワルは「豚の脳味噌と羊の脳味噌はどっちが賢いと思う」と怒った。
勤務先の病院では、漢人の医師には2LDKの部屋を一律に割り当てていたが、アニワルは夫婦と子供一人で1LDKの部屋しか貰えず、毎年同僚と同じ2LDKの部屋を要望したが、「住宅割当会議の時に不在だった」などの理由で拒否され続けた。
「もうこんな不平等な国には居たくない」との思いが募った。
アニワルの父は、中国では共産党員でなければ、安定した生活も出世も富も望めないと知っていたので、息子に入党を勧めた。
入党の申請をすると「次の党支部拡大会議に招聘するから、その時、入党の決意を語るように」と命ぜられた。
しかし、当日、緊急の手術が入って、会議に行けなかった。
党委員がやってきて「党が大切なのか、おまえ自身の用事が大切なのか。次回は絶対に参加するように」と厳しい口調で言った。
しかし、その次回も重態患者の緊急手術が入った。
会議の事が頭をかすめたが、アニワルは医師として人の命を救う方を優先した。
党委員は「入党申請書」を突き返してきた。
■6.あなたがた漢人は「偉大なる」民族だ■
ある時、ウルムチでバス爆破事故が発生し、多数の死傷者が出た。
東トルキスタンの独立を目指す組織が犯行声明を出した。
百人を超える医師と看護婦が現場で負傷者の手当に当たった。
アニワルもその一人だった。
その時、ある漢人の医師が腹立たしげに叫んだ。「はやくウイグル人は我々と同化すべきだ。そうすればこのような事件は起こらない!」
すべての人の視線がその場にいたただ一人のウイグル人、アニワルに注がれた。
アニワルは言い返した。
「確かに、、、あなたがた漢人は「偉大なる」民族だ。『日本鬼子(漢族の日本人への蔑称)』が中国を侵略したとき、あなた達は8年の抗戦を経て勝利した。我々ウイグル人もいつの日か、それに倣うだろう。
その場の空気が一瞬にして凍りついた。
96年にアニワルは主任医師(管理職)になるための試験を受けた。
理論、技術などすべての科目は合格したが、外国語だけは合格点に達しなかった。
中国語もウイグル語も外国語とは認められず、もう一つの外国語で受験しなければならなかったからだ。
そこで外国語習得のための留学を目指した。
しかしそれは口実で、本音はウイグル人と同じテュルク系民族の国に渡り、医者を続ける道を探りたかったのだ。
そこでトルコに渡り、3ヶ月の語学研修を受けた。
トルコ語は同じテュルク系の言葉なので、3ヶ月ほどで日常会話は支障なく話せるようになった。
次に、中国では学べない外科知識を学ぼうと、医科大学院の受け入れ先を探し始めた。
■7.核実験被害の潜入取材■
そこに、ウイグル人の知人が「英国のテレビ局の記者がウイグル人医師を捜している」という話を持ち込んできた。
英人記者に会ってみると「新彊に観光客を装って潜入取材し、核実験被害の実態をルポしたい。ガイド兼通訳と偽って、あなたも一緒に行ってくれないか」と懇願された。
アニワルは鉄道病院にいた時、鉄道局の健康調査データから、ウイグル人も新彊の地に長くいる漢人も、悪性腫瘍の発生率が他の地域に比べて35パーセントも高い、という分析をして、核実験被害に関する懸念を抱いていた。
アニワルは「協力しましょう」と答えたが、もし潜入取材中に見つかったら、と思うと、「逮捕」「投獄」「拷問」「禁固20年」などの言葉が頭の中をよぎり、体にガタガタと震えが来た。
98年7月に、アニワルを含む6人の取材チームは新彊に入った。
チームの中でアニワルはツーリストガイドを装っていた。
車を借りて交替で運転し、可能な限り裏道を走って、核実験基地のある「ロプノール」近辺の村々を回った。
■8.「お母さん、もう死にたい」■
農民たちは「基地では、漢人の住む方向に向かって、つまり西から東に風が吹く時は核実験をしない。西に吹いた時に行っていた」と憤る。
基地の西方面では、直接、放射能物質が降り注ぐ。
ある村では、生まれてくる赤ちゃんの8割が口唇口蓋裂(上唇や上顎が割れている症状)だった。
別の村では、内臓異常のため腹や喉など身体の一部が肥大化して瘤を持った者がたくさんいた。
また先天性異常で大脳未発達のため、歩けず話せない障害児ばかり生まれてくる村もあった。
それでも村人たちは、貧困のために転居もできず、汚染された水を飲み、「死の灰」の降った土壌を耕して生きていかねばならない。
ドキュメンタリー『シルクロードの死神』には、奇病に冒された17歳のウイグル人少女が登場する。
生まれた時には問題はなかったが、成長するにつれて骨が自然に折れて変形する関節異常を患っている。
踵(かかと)の骨が飛び出て、その痛さに泣き続ける。
「痛い。私の足を切って。お母さん、もう死にたい。」
「死を待つしかない子供たちに、親は『これは神様の定めた運命なのだ』と説明するしかない」
とナレーションが入る。
一行は文献資料収集も行った。
アニワルが大学や病院、図書館の資料を借り出し、英人記者たちが夜な夜な、ホテルでフィルム撮影を行う。
収集した1966年からのデータで、核実験の開始と共にガンの発生率が年々上昇している事が分かった。
取材を終えると、アニワルは逮捕を恐れて、ウルムチに住む家族に電話すらせずに、トルコに戻った。
放映された番組は大きな反響を呼んだ。
ようやく外科医の仕事を見つけ、これからは生活も安定すると思っていた矢先に、「中国とトルコが貿易関係の強化を図るので、政治亡命者は身の安全を考えた方がよい」とトルコ駐在の台湾人記者が警告してくれた。
せっかく見つけた外科医の仕事もなげうって、イギリス大使館に駆け込んだ。
大使館員は、アニワルが『シルクロードの死神』の制作に協力したと知ると、即座にビザを発給してくれた。
■9.「広島の経験を新彊で活かすことができれば」■
今はイギリスで同様に政治亡命してきた大勢のウイグル人とともに狭い家で暮らすアニワルは、新彊での核実験被害について
「医者としてやりきれない」と頭を抱えながら、こう語った。
中国では被曝者が団体を作ることも抗議デモをすることも許されないし、国家から治療費も出ない。
中国政府は「核汚染はない」と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の医療支援団体は調査にも入れない。
医者は病状から「放射能の影響」としか考えられなくとも、カルテには原爆症とは記載できない。
学者は大気や水質の汚染調査を行うことを認めて貰えないから、何が起きているのか告発することもできない。
このように新彊では、原爆症患者が30年間放置されたままなのだ。
さらにアニワルは、日本人に向けて、こう語った。
「被爆国日本の皆さんに、特に、この悲惨な新彊の現実を知って欲しい。核実験のたび、日本政府は公式に非難声明を出してくれた。それは新彊の民にとって、本当に頼もしかった。日本から智恵を頂き、広島の経験を新彊で活かすことができればといつも私は考えているけれども、共産党政権という厚い壁がある。」[1,p141]
(文責:伊勢雅臣)