大内家について、わかりやすい記事です。
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日本に渡った琳聖太子
2012/04/25 14:39
面白いものを見つけました。
韓国語なので、わからないかも知れないけど・・・
日本から大内家夫婦が韓国に訪問されたところから始まります。
大内さんの話によると親からいただいた系図で百済の琳聖(インソン)太子の45代目子孫だと言うことがわかったそうです。
この琳聖太子の歴史、そして大内家の歴史をたどって行くのです。
琳聖太子は、日本に仏教と鉄を伝え、西日本でも1.2を争うほどの基盤まで育てました。
室町時代には日本最大の家門にもまでなったそうです。
その基盤には、中国や朝鮮との貿易がありました。
大内家は、山口に韓国式の大きな宮まで建てたそうです。
琳聖太子は597年(推古天皇5年)山口県多々良に上陸しました。
この多々良大内家の系図にあった多々良と同じです。
琳聖太子が建てた興隆寺は、とても大きな規模でした。
その興隆寺には、琳聖太子が実際に使っていた帽子・ふえ・刀が残っています。
この刀には、大内家の家紋が残っていました。
このようなことから琳聖太子は、伝説的な存在ではなく1400年前に日本にやってきた大内家門の始祖だと言うことがわかります。
しかし、この琳聖太子は韓国の歴史に残されていません。
その理由に、記録は王を中心に残しているのであって、王子は相当な功績がない限り記録にはないそうです。
では、この琳聖太子、なぜ日本に来たのでしょうか?
琳聖太子が日本に上陸した597年頃には、3年間で3人の王が即位し3人の王が殺された王位継承で氾濫があった時期だったようです。
そういう中で琳聖太子の父である聖王(百済26代王)が新羅との戦いで殺され、
琳聖太子は山口にいかざるをえなかったのではないか・・・
そして後、琳聖太子の母、聖王の妃も山口にきました。
最後に出てくる神社には、2人を奉っていると言っていましたね。
韓国では残っていない歴史を、日本で今も受け継いでいるんですね。
百済と日本のつながりがあるのは知っていましたが、このような具体的な内容を見ると面白いです。
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まったく、日本のおかげで、東アジアの歴史が継承されています。
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